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ARCH : archとは


はじめまして。ご覧いただきありがとうございます。

「ARCH : arch」は建築と都市について考えるメディアです。

特に、建築家や都市計画化がデザインを通して空間を構成する側面と、人が生活を通して場に棲みつき空間を形成していく側面の両面から考えていくことを大切にしています。この二項対立はタイトルのARCH : archやそのロゴにも表れています。構築・芸術・計画としての建築としてのARCHと、そこに人が住みローカルに意味付けながら空間を生産していく営みとしてのarchの絡まりあいを考えてきたいと思っています。詳しく知りたい方は、下の文章を読んでいただけると幸いです。

本ブログは、基本的には木村が管理人が更新していますが、どなたでも記事を書いていただくことができます。興味のある方は気軽にお問い合せからご連絡ください。

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加えてお願いですが、本ブログのために専門外の本を一人で読むことも多く、いろいろと勉強不足なこともあるかと思いますので、間違っている点などありましたらご指摘いただけますと幸いです。また、もし近い興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非お話ししたいです。東京の豊島区でOKARAというシェアハウスを運営しておりますので、そちらに来ていただければ直接でもお話しできます。(事前にご連絡ください。)


近代と構築

構築と形成(ARCHとarch)は時代の背景によってどちらが前景化することもありますが、常に切り離せないものです。

近代では構築の側面が建築家や都市計画化の職能として、あるいは都市・建築の役割として期待されてきました。それは啓蒙主義の延長にあったものだと僕は考えています。時間の中で築きあげられてきた慣習に潜む不合理・無駄・理不尽を、客観的・科学的・論理的な理性の力で見つめ直し、より目的に適った制度・仕組みに置き換えようというのが啓蒙主義であったといえます。その力は凄まじく、実際にあらゆるものが「改善」されてゆきました。都市や建築もその一つでしょう。

そこにおいて建築家や都市計画家は、人間の認知様式・行動様式から引き出される空間図式を再構成して、問題を解くように空間を構築することが基本的な職能の一つだったといえます。さらに、彼らには「幻視者(ヴィジオネール)」としての役割も期待されていました。「幻視者」というのは、夢を描く人と言えばわかりやすいでしょうか。人類が未だ見たことのないような社会や生活や空間の在り方を、彼らの感性と理性とを以って描きそれを形にしていく役割です。この才能は、特に「明日は今日よりも良くなる」という時代の感覚の中では、希望の灯火となり得るものでした。

つまり近代において建築は、生活や現実から一度身を引き剥がし、理性と感性で描いた新たな未来を実現するという営みであったといえます。僕はこうした営みを「構築」と呼んでいます。勿論、多種多様な建築家の試みがこれらの流れにすべて回収されるはずもありませんが、大枠としてはそのようなものだと理解しています。(勉強不足な点があればご指摘いただければ幸いです。)

生活へ──生成・形成と変容

それに対して、近年少しずつ建築や都市の流れは変化しつつあります。そこに暮らす人たちの生活や感受性、生き方に寄り添ったような空間や、あるいはそこで生まれる行為、社会活動に目を向けたものが増えつつあるのです。その傾向は例えば、新建築よりも住宅特集が売れるようになったことや、リノベーション・DIYが盛んになってきたことなど様々な事象に表れています。

そして、そこでは建築は動かざる完成されたモニュメントから、絶えずうごめき変容し続けるナマ物として捉え直されているように見えます。しかし、建築の世界にはまだそうした流動性を取り扱い、評価するような言論の体系がありません。(部分的な議論は既にたくさんありますが、まだバラバラに散在しています。)

こうした領分に踏み込んでいくにはこれまで建築・都市が扱おうとしてきたものとは別のパラダイム、別の頭の使い方が必要になるのではないかと僕は考えています。思うに、そこに欠けているのは「生成・形成」と「変容」に関する理解です。都市哲学者のルフェーブルは『日常生活批判』の中で、日常生活には「曖昧で流動的なものそのままで許容する働き」と「曖昧なものを制度として形成していく働き」があると書いています(意訳)。人々の生活の実践の中には、言語や図式などのどんな表象でも拾い上げられない暗黙知の領域があります。その暗黙知の領域に潜む、曖昧な「未満のものたち」こそが「生成・形成」と「変容」の源泉であるのではないでしょうか。この暗黙知の領域を扱うにはまず、現象的な世界を理解する必要がありますし、そこからの形成・変容の運動のメカニズムについても深い洞察が必要です。

そして、アレグザンダーの都市構造の議論にみられるように、あるいは、柄谷が「隠喩として」建築を引いているように、建築や都市は有限の要素からなる、時間的にも不変な「閉じた系」と考えられてきました。それに対し、「生成・形成」と「変容」を考えることは、その系を開き、動かしていくことです。このあたりの議論をするには、ポストモダンの哲学、社会学や人類学の思想を拝借してくるのがよいと考えています。

さらにより具体的・現実的な話で言えば、これらは「つくること」と「つかうこと」を巡る問題であるといえるでしょう。そこにおいては、施工(構法・マテリアル・DIY…)や不動産(管理・経営・公共性…)といった分野の問題が前景化してきます。それらはどちらかというとこれまで建築家たちにとって補足的・周縁的な分野でしたが、(最近の若手の建築家の実践にも見られるように)今ではすでに新たな主題となりつつあります。

構築と形成の共存へ

最後に強調しておきたいのですが、僕は決して前半に述べたようなこれまでの建築家・都市計画家の在り方を否定したいわけではありません。むしろ、計画として空間を解くことも、生活を超越した何かを表現をする「幻視者」であることも、ずっと建築家や都市計画家の中心的な職能としてあり続けるべきだと思っています。ただし、そこにもう一つ新たな領分を追加したいと思っています。それはいわば、「庭師」のような能力かもしれません。社会課題を解き一つの世界観を創り出すことに加え、「生成・形成」と「変容」を理解し、時間と戯れながらその場所・空間を導いていくような在り方を思い描いています。

ARCH : archのロゴには、構築と形成の健やかで美しい調和を目指す意が込められています。本ブログは、そんな建築・都市の在り方へ向けた、理論的な背景をくみ上げつつ、誰にでもわかりやすく噛み砕いて伝えていくことを目指しています。

どうぞよろしくお願いいたします。

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