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アラウンドアーキテクチャ#2『原っぱと遊園地』

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#2を振り返って──「遊園地」を受け入れること

第二回目のテーマは、「現れとしての空間」でしたが、扱う本を『原っぱと遊園地』(と『原っぱと遊園地2』)だけに絞ったこともあり建築設計論としての趣も強い回でした。

今後の本でも登場しますが、事物というのは必ずしも寸法やマテリアルなどの物理的な「カタチ」だけではありません。それらは、常に人間にとって何らかの意味(有用性や危険性、使い方など)あるいは空気感(感覚やイメージ、情緒や記憶など)を伴ったものとして現われます。しかし、意味があまりにも強く事物に固定化されてしまうと、その事物に対する感受性は薄れ、私たちはそれをある種の記号として受け取り機械的に処理してしまいます。

青木さんの「原っぱ」と「遊園地」というのは、こういった感覚に裏打ちされた概念です。人々が自由に感じ、使いこなせる場としての「原っぱ」と、それに対して人の感受性を閉じ込め、予め設計された感じ方・使い方に誘導してしまう「遊園地」。(本来、建築はこの両面を持ち合わせたものであるはずですが、こういう二極を設定するということ自体が、建築家の「押しつけがましさ」「エゴ」に対する後ろめたさを表しているように感じられます。)

青木さんはとにかく「遊園地」にならないこと、「原っぱ」であることを大切に設計を進められています。そしてそれは、多様な様相を感じられるような意匠を設計したり、人の生活・活動を要素へと分解せずに扱う計画手法を考案したりという方法論につなげられていきます。この本を読んだのは二度目なのですが、青木さんの問題設定の仕方や、「原っぱ」と「遊園地」という極めて分かりやすい概念の設定の仕方、そしてそれを実際の設計活動に結び付けていくロジックの強さには改めて感銘を受けました。

しかし同時に、そこにあるやや過剰な「遊園地」嫌いについて、若干引っかかるところがありました。これは勉強会中にも議論になったことで、本当に「遊園地」は良くないのだろうか、また、絶対的な「遊園地」というのは存在しないのではないかといった話が話題に上がっていました。

その時は、あまりはっきりした解答を持てないまま終わってしまったのですが、ぼんやり頭の片隅にその問いを残したまま別の本を読んだときに大変面白い気づきがありました。その本というのは、法律家の水野祐さんが書かれた『法のデザイン』です。

水野さんは法律家の方ですが、法の再解釈やあるいはルールメイキングを通じて、人の活動がより創造的になるような法の在り方を提唱されている方です。水野さんの考えでは、法は人を規制するものであると同時に何をしていいかを示すものであり、むしろそれによって活動を活性化させる意味合いもあるといいます。また、法は時代によって移ろいゆくものであり、その変化のためには法には読み替え可能な余白(グレーゾーン)が必要で、そこを起点に新しい活動や行為が生まれ法が変わっていくのだとしています。

これを読み、こちらの方がずっと誠実な態度なのではないか、と感じたのでした。というのは、法は人を規制するものであることをその前提からして受け入れているのです。しかしその上で、規制するがゆえに活動を活性化させることができると考えています。また、規制自体が時代遅れになることも自覚し、その上で次の時代の法が生まれるための余白をどのように残すかという発想を持っています。

これは、ある意味「遊園地」であることを(部分的にであれ)受け入れるということです。人を縛るし、行為を誘導もします。しかしそれは活動を抑制するためでなく、むしろ健全な社会関係と創造的な活動環境を作るためです。そして、それでも「縛る」ということの弊害には自覚的です。時代や状況に合わない法が不要な「縛り」になってしまわないように、そこにはグレーゾーンを敢えて設けておくのだといいます。

つまり、人の行為を規定する・縛るということは、単純に自由の反対にあるものでなく、むしろ規定する・縛ることによって生まれる自由があるということを青木さんは見落としているのではないでしょうか。(いや、建築家の実感としてそれを理解していないはずはないのですが、少なくともロジック上では。)だから、「遊園地」をひとつの絶対悪的な極として捉えることはやや危険を伴うように思います。

(これも水野さんの本で紹介されている話ですが、)ローレンス・レッシグという法学者が有名な『CODE』という本の中で、人間の行動や社会活動を規制する要素を四つ挙げています。それは、「規範・慣習(Norm)」、「法律(Low)」、「市場(Market)」、「アーキテクチャ(あるいはコード)(Architecture)」です。ここではそれぞれに深入りはしませんが、ここで「アーキテクチャ」が登場するのが重要です。

この「アーキテクチャ」は建築の意でなく、(建築も含みますが)物理的・技術的な環境によって制御する方法のことです。例えば、AdobeのillustratorとPhotoshopでは描ける絵が全然違うのもアーキテクチャの違いです。(illustratorやPhotoshopの提供する作業環境が一つのアーキテクチャ。)あるいは、スマホのラジオ視聴アプリであるradikoではCMが飛ばしにくいように、スキップボタンがなく、またシークエンスバーも大まかにしか動かせないという仕様になっています。実際の空間でいえば、水野さんは「ファストフード店の椅子の硬さ・BGMの音量・冷房の強さ」によって滞在時間を調整する例などを挙げています。ルールが決まっているわけでも、そうしないといけないと思ったわけでもなく、ある意味では自ら勧んで誘導されるわけです。環境制御型というような言い方もされます。

この「アーキテクチャ」は、無意識のうちに人の行為を誘導し規制する一つの有用(でそれ故危険)な方法です。

ここで翻って考えてみると、「アーキテクチャ」の語源となった建築というのは本質的に「規制術」であったということがいえるはずです。(改めて言うまでもないかもしれませんが)、建築というのは壁を作り空間を切り分け、明らかに人の行動を制限しているわけです。何もない方が遮られることなく自由に歩き回れるでしょう。しかし、それによって可能になる自由な行為や活動、豊かな体験、秩序ある社会関係などがあり得ます。

無意識に人を誘導するが故に強大な権力にもなり得ることを自覚しつつも、また、適切な規制の仕方は時代により社会により変化することも自覚しつつも、規制することをやめたり規制していないふりをするのではなく、良心に基づいてその時代その場所に最善と思われる規制の仕方を敷くしかありません。

建築は人の行為を多少なり規定するものであるということを一つのさだめとして受け入れつつ、「野原」にもならず「遊園地」にもならないために、そこにどのような「整理の仕方」と「余白の残し方」があるのかを考えていくのが建築家に求められる良心とバランス感覚なのではないでしょうか。

(なお、「整理の仕方」というのは『原っぱと遊園地2』に出てくるSANAAの妹島さんからの言葉を基にしたものです。勉強会でも最後に扱いましたが個人的には一番面白い話でした。よろしければ是非。)

注意事項

・本勉強会は2020年10月~12月に行われた「アラウンドアーキテクチャ」という勉強会のアーカイブ動画及び解説に用いた資料です。本勉強会について、詳しくはこちらをご覧ください。

・動画中の解説は、木村の解釈に基づく解説です。何かご指摘やご意見などございましたら、本投稿や動画に対するコメント、あるいは木村の個人連絡先nile.kimura[a]gamil.com([a]を@に変えてご送信ください)までご連絡いただけますと幸いです。

・「読むべき本か」を判断するために、概要を紹介している勉強会ですので、これだけで理解できたと思わず是非原本をご一読いただくことを推奨いたします。

・本動画やpdfは自由にご利用いただいて構いませんが、関係者が気分を害したり不利益を被るような使い方はご遠慮ください。

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木村 七音流 ()
東京大学新領域(中略)岡部研究室M1。 建物や都市が生きられるとはどういうことか、というのが個人的なテーマです。建築論・都市論の中からだけでなく、哲学・社会学・表象文化論など周辺の学問分野や、自ら現場で手を動かす実践を通して考えるように心掛けています。なお、所属の正式名称は「東京大学大学院新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻空間環境学講座岡部研究室」です。

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