ハライチのターン!
建築学科に入って、手を動かす作業が多くなってから、耳の楽しみのためにラジオを聴くようになった。僕は主にお笑い芸人のラジオを聴くことが多いのだけど、その一つにハライチがTBSラジオでやっている「ハライチのターン!」がある。
ハライチと言えば、坊主の澤部がよくテレビに出ているイメージをお持ちの方が多いかもしれないが、ラジオを聞いてみると岩井もすごく面白い。漫才だと控えめだけれど、ネタを作っているのは岩井でラジオでは結構ボケる。
まあそれはさておき。ハライチのターンを見ていて面白いなと思うのは、そのコーナーの制度である。基本的にラジオ番組はフリートークとコーナーから構成されており、コーナーではハガキ職人と言われるリスナーたちがお題に対してメールで回答をする。普通、コーナーは番組サイドが設定して募集をかけ、送られてきたメールから選んで読み上げるという風になっているのだが、ハライチのターン!はちょっと違う。
ハライチのターン!では、番組がコーナーを設定しない。とはいえ、コーナーがないわけではない。どうなっているかというと、コーナーが「できてくる」というのが正しい。流れは凡そ次のような感じ。
①パーソナリティがその週にあったことなどのエピソードトークをする
②リスナーがそのトークから派生した大喜利メールを送る→コーナーとしての枠組みができてくる
③それに便乗してたくさんのメールが届く→コーナー認定される
しかも、こうして一度できたコーナーがずっと続くわけではない。10週続けば正式にコーナー化されるということになっているのだが、たいていは10週以内に飽きてきて終わる。それもプロセスに入れるならこんな感じ。
④コーナーとしてのノリが出来上がってくる(ちなみに4週目に突入するとコーナーの音楽がつく)
⑤④をフリとしたそこからずらす様なメタなボケ方が出てくる
⑥段々と何でもありになってきたり、逆にマンネリ化したりして終了
具体的なコーナーに当てはめるとこんな感じ。ちなみに面白いので実際に聞いてみてほしい。(聞きたい方にはネタバレあるので飛ばしてください。)
①澤部の娘が「アンナアンナアンナ パパ アンナアンナアンナ パパ アンナアンナアンナ パパうんち!」といってくる遊びが家で流行っているという話。→岩井は「怖いそれ」と反応
②翌週、リスナーから「アンナアンナアンナ 長嶋一茂 アンナアンナアンナ 長嶋一茂 アンナアンナアンナ 壁にバカ息子うんち!」というメールが届く。→岩井が「それも事件前に予言してたみたいに聞こえるんだよな」
③さらに翌週、「アンナアンナアンナ ○○ アンナアンナアンナ ○○ アンナアンナアンナ △△!」のフォーマットで予言をする大喜利がたくさん送られてくる。→その次の週、コーナーとして認定(そこが第1週目)。
④このコーナー独自のキャラクター(浮気をしまくる舞台俳優)が登場してくる。ある週、岩井がそのキャラに「佐野陽介」と名前を付けたことでそのキャラをいじる流れができてくる。また、予言というよりあるある的なメールが増える。
⑤段々、「佐野陽介」(=炎上しがちな芸能人あるある)がメインのコーナーとなっていく。「アンナアンナアンナ 佐野陽介 アンナアンナアンナ 佐野陽介 アンナアンナアンナ 金スマで壮絶な過去を語り涙流すも被害者ぶるなと炎上!」
⑥次第にノリが同じようになってきたタイミングで、終了(体裁としては、予言が実際に当たったら終了、といっており、実際に当たった予言があったので終了)
このシステムがとても面白いと思っている。この番組には、コーナーがあるのではなく、コーナーを生むためのメタな仕組みがある。そのおかげで常に一番面白いことを面白がり続け、マンネリを避けることが出来る。大袈裟に言えば、生成・変容・淘汰などの自己更新のためのゆるやかな仕組みが設計されていると言える。
インキュベーターとしてのアゴラ
もう一つ、似た話がある。
古代ギリシアのポリスでは、丘の上にアクロポリスという神殿があり、その下にアゴラと言われる広場があったという。広場は市民活動の拠点だったということは聞いたことがあるかもしれないが、実はとても面白い機能を持っていた。
それは「インキュベーター(孵化装置)」としての機能である。アゴラでは日々、様々なアクティビティが行われていた。アゴラはポリスの直接民主主義を実現するための場所でもあったし、その他市場が開かれたり、学問の議論が交わされたり、演劇が行われたりもしたという。
大事なのはそれらのアクティビティがまだ「政治」だとか「市場」だとか「演劇」だとかそういった名前が与えられる前であったということだ。それらは、人びとが勝手に始めただけのことであって、ちゃんとした形式があるわけではなかった。
そして、面白いのがアゴラの周りには次々の諸々の施設が出来ていったということである。下の図の6番がアゴラである。それ以外の番号が何を意味していたかはもう忘れてしまったが、「議事堂」「市場」「劇場」「裁判所」などアゴラの周辺に諸々の施設が出来ていく。
![](http://ut-arch-arch.pinoko.jp/wp-content/uploads/2020/05/img_2624-2.jpg)
つまり、アゴラで起こったアクティビティが繰り返されるうちに、徐々に行為の形式が生まれ、それにふさわしい空間・環境の形式としての建築ができてきたのだ。
いきなり裁判所ができたのではない。はじめはただ、悪いことをしたやつがいて、そいつに相応しい罰を与えようという話し合いだったのだろう。そこに次第に様々なやり方のルールや慣習が出来てきて、「裁判」という行為の形式が生まれた。そして、それにふさわしい空間・環境の形式として裁判所が作られた。(行為の形式と空間の形式にも時間的なラグはあると思うが、それはここではさておく。)
大事なのは、まだ未規定で萌芽的なアクティビティーが許容され、何らかの「形式」として形成されていくまで何度も繰り返されるような場所があったということである。アゴラはある種の「インキュベーター(孵化装置)」としてあったのだ。
「その他」のための公園
現代において、そういった意味での広場はあるのか?と思う。
そこで面白いヒントになる考察が石川初さんの『思考としてのランドスケープ』にのっている。
公園は、都市における目的的行為を支える「非・目的的な場所」として構想され、それを維持するために法律で定められた施設化と運用が行われているのである。(55)
石川初『思考としてのランドスケープ』
つまり、公園というのはいわば現代のアゴラのような場所として設置させれているのである。(とはいえ、現代に至るまでまだ形式化されていない行為がそんなにしょっちゅう生まれるわけではないだろう…)
しかし、公園にはそれぞれにルールがある。スケートボード禁止、球技禁止、花火禁止などである。石川さんはこれらは他の「その他」を引き受けるために必要な制限であるとしたうえで、むしろこうした禁止・制限で行為が規定されていること自体、公園が「その他」の受け皿であることを示しているという。
公園に出現するさまざまなアクティビティを観察すると、現代の都市でどのような行為が許されていないかということを、逆側から見ることができる。公園は、そこでなにをするのかをあらかじめ決めないことで、都市で許されていない行為を引き受けている。(62)
石川初『思考としてのランドスケープ』
繰り返し述べてきたように、公園は本来、都市における「その他」を引き受けるべく構想された、何をしてもいい場所なのだ。その公園のコンセプトを固持するために、禁止看板は他の場所ではなく公園に設置されねばならないのである。公園の禁止事項は必ず、特殊で例外的な事項として掲げられるからである。禁止看板はつねに「ローカルルール」なのである。(中略)禁止看板は、あえて公園の現地に置くことによって、その看板の設置が不本意であることを示し、翻って(どこかにあるはずの)本来の公園はすべての人や行為を受け入れ、なにをしても自由な場所であることを示しているのである。(63)
石川初『思考としてのランドスケープ』
なるほどな、と思った。公園がそういうコンセプト・思想のもとにつくられたものであるということは知らなかった。
とはいえ、実効的なレベルで公園が何某かのインキュベーター的な機能を果たしているかと言われればそれは中々首肯できない。確かに、他の諸々の「目的的な施設」では受け入れられない行為の一時的な受け皿には成り得ているとしても、それが何度も繰り返され、ある種の行為の形式を持つまで形成されるわけではない。
それは、周囲なり管理者なりによる「異質なものを排除しようとする作用」が働いているからだ。ルフェーブルはこのことを均質化作用といった。均質化というとやや強いが、既存の安定した暮らしを脅かすかもしれないものを排除しようとするという意味合いだと思ってもらえればよい。
たとえば、一度公園であるyoutuberがメントスコーラをしていたとして、それをそこまで咎める人はいないかもしれない。しかし、彼が何度もそこで撮影を行いはじめ、また、色々なyoutuberがみんなそこで撮影を行いはじめたとしたら、おそらくそのうちこの公園には「youtubeの撮影禁止」という貼り紙が出てしまうだろう。それは理解できるし、公園の他の利用者のことを思えばやむを得ないことだろう。ただやはり、公園には形成作用はないと言わざるを得ないと思う。
私は、その最大の問題は具体的な顔の見える個人を越えたレベルの公共性のもとで管理が行われているからではないかと思う。
もし仮に、その公園を使う人が20人しかおらずお互いに顔見知りだったとすれば、あいつがyoutube撮影に使ってるらしいけれど、まあいいんじゃないかあいつ代わりに町内会の活動頑張ってるし、とか、あいつの動画面白いし、とかそういうローカルな許し合いが可能になると思う。あるいは多少気に入らなくても、交渉して何かしらの妥協案にこぎつけることもできるかもしれない。
しかし、一般的な市民にとって、という視点で考え始めるとyoutubeの撮影を許容するロジックを立てるのは難しい。公園はその他のための場所といいつつも、ある程度の既に価値を認められたアクティビティ群があり、それらの既得権益を脅かすことは許されない。
生成とインフォーマリティ
私の所属している岡部研究室では「インフォーマリティ」が一つのキーワードになっている。
インフォーマルとはなかなか定義しづらいが、基本的に既に形成され確立されたもの(=フォーマル)の外側だと私は理解している。ここで注意したいのは、これらは完全に二分されているわけではない。たとえば、法律やそれに基づく諸制度はいまはフォーマルなものであるが、もともとは様々なインフォーマルな経緯から生まれてきたものである。
最近の例としては、民泊新法がある。Airbnbのサービスが日本に導入されたことで、観光客数の増加に伴って、日本中に民泊が増えた。これは旅館業法など既存の法律の規定に、はまり切らないグレーゾーンをついたものであった。いわばこれもある種のインフォーマルな動きから生まれてきたのだ。それらの価値を一定程度認めつつ、衛生や防災などの観点から最低限守るべきルールを設定するために2019年から民泊新法が施行されることになったのだ。
私のイメージは、フォーマルはインフォーマルが形成されていったもので、下の図のようなものだ。これらはシームレスにつながっていて、混沌としていて無秩序だったものが徐々に形成されて秩序だってくる。インフォーマルとは、生成・変容・淘汰が絶えず起こる領域である。赤矢印が形成の作用である。(研究室としての共通理解ではなく、私の個人的なイメージ)
![](http://ut-arch-arch.pinoko.jp/wp-content/uploads/2020/05/E68D036C-BB07-44FE-AA3F-F33A9DD95D5C.jpg)
ちなみに、このイメージのもとになっているのは三木清の『人生論ノート』にあった一節である。
生命とは虚無を搔き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を搔き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生とのように異なっている。しかし虚無は人間の条件である。
三木清『人生論ノート』
それと、もう一つ決定的なのが篠原雅武さんの『公共空間の政治理論』で登場したルフェーブルの『日常生活批判』の解説である。ルフェーブルは日常生活には、「萌芽的な行為」が生まれる作用とそれらが制度として形成されていく作用の両面があると述べている。
日常生活批判が、瑣末なことの経験的収集と区別されるのは、表面上は隠蔽される豊かさの所在を明らかにし、かつこれがどの程度に保たれているかを理論的に評価しようとするからなのである。ルフェーブルによれば、この重層性を規定するのは次の二つの水準である。流動的で曖昧な不安定状態にある水準と、社会制度や習慣など不安定状態を定まったものへと形成していく水準である。日常生活が成り立つのは、この二つの水準の重なり合いにおいてである。
前者の、流動的で曖昧な状態は、「日常生活の一つのカテゴリー、多分本質的なカテゴリー」とされるが、これは日常生活の、「可能なものを可能性の状態に保つ」局面、つまりそこで行為や出来事が突然、予期に反して現れる局面に対応する。これがルフェーブルの言う、日常生活の隠れた豊かさ、ないしは驚異の源泉である。
とはいえ日常生活は、ただ流動的というだけではない。それと反対の、形態へと構成されていく局面を持つ。「日常生活とは一つの制度である」ここでルフェーブルが制度と言うとき、それは必ずしも「国家管理的で強制的な」、つまり社会集団に対し、その活動の実態と関わりなく押し付けらえるものを意味しない。むしろ、制度は「一つの作品として、つまり社会的な一集団の作品もしくは一個人によって生かされる社会的な一活動の作品」というように、活動に即して制作されるものを意味する。
日常生活は、こういう意味での制度としての形態を持つ。曖昧で流動的な状態が、形態へと構成されていくところに形成されるのが、制度としての日常生活である。ルフェーブルは、そこで起こり、出現する行為や出来事が曖昧な状態を脱しており、「厳密な輪郭」、つまりは「固く、鋭い客観性」を有することになると述べるが、このように出来事が曖昧ならざる形と客観的な意味を持つのは、制度に備わる形成作用によると言えよう。
これが日常生活の二重性である。曖昧で流動的な水準と、制度としての水準は互いに区別されるが、対立せず相補的な関係にある。日常生活を存立させて構成するのは、新たなものを生じさせつつ、それを形あるものへと形成していく二重の働きである。
篠原雅武『公共空間の政治理論』
つまり、「曖昧で流動的な状態を許容すること」+「それを制度へ形成していくこと」の二つが重要であるのだ。公園はこの後者を持ちそびれたと言えるだろう。
さて、岡部研究室の話にもどろう。弊研究室では、スラムなどの地域を一つの研究対象としている。(必ずしもそれだけではないが)そうした地域での公共性は、日本でいうような公共性とは若干ニュアンスが違っているように感じる。というのは、インフォーマルなエリアでは、さっき書いたようなローカルな許し合いが一つの基盤になっていることが多いように思われる。顔の見える関係性に基づいたおおらかさ、曖昧さが決定的に重要なのではと私は思う。
つまり、言葉や契約やルールなどで明言して確立した形にしてしまうのではなく、ある程度、なあなあで成り立っているところがあるのだ。それは、ある時には異物を排除する作用にもなり得るが、ある時には異なる状態への柔軟な対応力の基盤になっている。(具体的なことを書きだすと長くなるので、今度に回します。)
ただし、インフォーマルはそこから必ず良いものが生まれてくるという保証はない。また、衝突が起こることもある。何が生まれてくるか分からないからこそ、良いものも生まれてくるのである。そうした不確定性を受け入れるだけの度量と曖昧さがある場所でないとインフォーマルは根付けない。そのためには、やはり私はローカルな許し合いの圏域をどう作っていくかがポイントだと思っている。
そういえば、余談だが前に水野祐さんという建築・不動産分野を含め、創造的に法を使っていこうというスタンスの法律家の方のおはなしを聞いたときに、「ルールはいかに余白を設計するかが肝だ(意訳)」という旨の言葉がとても印象的だった。それはインフォーマルが健全に息をするためのバランスと制度を設計するということなのだろう。そして、フォーマルが持つ権威も今だけのものという認識も感じられる。いまフォーマルであるものもやがて変容するだろうし、覆されることもあるかもしれない。むしろその次をつくるような萌芽的な動きを抑制しすぎないようにすることが健全であるというのは新鮮な視点だなと驚いた覚えがある。
21世紀のアゴラはインターネットか
最後に余談ながら、簡単にインターネットのことに触れておきたい。
僕は2chのことをよく知らないが、2chは間違えなく2000年代初頭において、一つのアゴラ的機能を果たしていた。またアラブの春のようなボトムアップ的な政治的革命が起こったのもインターネットからだった。近年の様々な草の根的な運動もほとんどがインターネットを経由したものだろう。
かつては、人が何か言葉を交わしたり、連帯感を持った行為・活動を行うには実空間が必要であったが、もはや21世紀には都市にそうした場所は必要なくなってしまうのかもしれない。というより、既に都市には行為や文化を形成していくだけの土壌はないのかもとさえ思ってしまう。(唯一希望があるとすれば、サブカル界隈の趣都だろうか。下北沢、高円寺、原宿、秋葉原、神保町など…)
インターネットがある種の生成と形成の作用を請け負ってくれたことはとても素晴らしいことだと思う。しかし、その一方で実空間からそうした作用が引き剥がされていっているとすれば、それはとても危険なことだとも思う。まだうまく言えないのだが、フィジカルでしかありえない人間の現れ方があるのではないか。
都市や建築が生成と形成の場であるために何を考えていけばいいのだろうか。