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建築のアクチュアリティ

現象学的な「リアル」=アクチュアリティ

ではなぜ、「リアリティからの距離を示すこと」が「アクチュアル」と結びつくのでしょう?

これは私の見解ですが、答えは「我々が抱いているイメージは歪んでいるから」ではないでしょうか。「歪んでいる」というのは決してネガティブな意味ではなく、単に変形・変質しているの意です。言い換えるなら、私たちは物事をそんなに「リアル」に認識していないんじゃないか、ということです。

私たちは自分の感性や知識や規範や気分や色々なものが混ざり合ったフィルターを通して世界を見ています。単に即時的なものの認識についてもそうだし、記憶や想像なんかはもっとズレがあるでしょう。つまり、「りんごそのもの」を見ているのではなくて、「りんごのイメージ」を見ているのです。

このように、私たちが見ているのは事物そのものではなくて事物のイメージである、という前提に立って考えるような立場を建築ではよく「現象学的」といいます。(哲学の人に言わせれば厳密な「現象学」の分野とはズレていることもあるようですが、ひとまず「的」とつけることで、ここではあまり深入りするのはやめておきます。)

ちょっと余談ですが、こうした現象学的なアプローチの有名な本の一つに、ボルノウの『人間と空間』があります。そこでは、寸法・形態・マテリアル等のパラメーターで構成できる「数学的空間」と個人によって感じとられる〈体験されている空間〉を分けて考えています。この前者は「りんごそのもの」のことで、後者が「りんごのイメージ」のことです。

さて、「リアリティ」と「アクチュアリティ」に話を戻しましょう。この整理を踏まえてみてみると(やや強引かもしれませんが)次のように言えるのではないでしょうか。

「りんごそのもの」への肉迫が「リアリティ」、「りんごのイメージ」への肉迫が「アクチュアリティ」。つまり、客観的に存在する事物そのものに関する再現性を「リアリティ」といい、その事物に対して人(あるいは人々)が抱いているイメージに接近することが「アクチュアリティ」なのではないか、ということです。

「10番目の感傷(点・線・面)」にあてはめて考えてみましょう。あの作品で壁に映された”建物”や”街並み”は私が実際に見たことのあるものではありません。その意味で、実際に存在する光景とは違いますから「リアル」ではないといえます。

しかし、私(たち)の記憶やイメージの中での、”建物”や”街並み”あるいは”車窓からの風景”はああいう感じなのです。それが「アクチュアル」ということなのではないでしょうか。

そして、頭のなかのイメージは形態的なものだけで完結しているわけではなく、さまざまな記憶や感情や思念と隣接しています。あの影はただ形象としてのみではなく、速度や明るさや静けさや、えも言えぬ空気感も含めて何らかのイメージに接近したからこそ、心のなかのいろいろな部分を彗星のように掠めて通り過ぎていくのです。

もし仮にと実際の車窓からの光景が放映されたとしたら、それを「アクチュアル」だなと感じる人もいるかもしれませんが、「なんだかイメージと違うな」と思う人が何人も出てくるのではないでしょうか。あえて、やや抽象的に、「リアリティからの距離を示すこと」でそれぞれの人がそれぞれの人にとって「アクチュアル」であるように残りの余白を埋めうるのです。

これが、「リアリティからの距離を示すこと」が「アクチュアル」と結びつくわけなのではないかと思います。私たちのイメージが歪んでいるからこそ、ある程度以上「リアル」に近接して一つの現実を突きつけることは、むしろイメージの「アクチュアリティ」からは遠ざかることになってしまうのでしょう。

やや大げさに言い直すなら、「リアリティ」はある意味、多様に存在し得る世界線(あるいは世界認識)のひとつを強要することでもあり、誰かにとっての世界線の「アクチュアリティ」を否定することになる、ということです。

建築におけるアクチュアリティとは

最後に、建築におけるアクチュアリティについて今後考察するための道筋を簡単につけておこうと思います。

「10番目の感傷(点・線・面)」のような作品では、肉迫する対象は記憶の中の車窓や今感じていることといった過去や今現在に関するイメージでした。また、「ときわ荘ミュージアム」の場合も、過去に明確な「リアリティ」の参照点がありました。

では、建築における「リアリティ」や「アクチュアリティ」は何に迫る(あるいは寄り添う)ことなのでしょうか。(ここからは答えが出ないまま仮説として書きますがご容赦ください。)

建築における設計は、いろいろなイメージを諸々の条件や制約の中で実際の建物としての形に結び付けていくことです。建築家はイメージを三次元的な事物の構成に翻訳します。何度もイメージに立ち戻ったり、またカタチに帰ったりしながら一つの建物の「オリジナル」を仕上げます。それは図面や模型や3Dを通して表現されるもので、それの通りに部材を組み合わせていけば建物になるというものです。「オリジナル」はもはや曖昧なイメージではなく、実在こそしないものの一つの確たる像、あるいは、プランとして存在します。「オリジナル」には、ただつくり方のプランだけでなく、そこを使う人達の理想的な在り方像も含まれています。

その「オリジナル」に現実の建築を肉迫させていくことが「リアリティ」の追求だと言えます。いかに事前に思い描いたとおりの建物とそこでの人々の暮らしを再現できるかが「リアル」な建築における価値尺度なのでしょう。たとえば、予めパースで描いていたような光景が実際に起こっているとすればそれはとても「リアル」な建築と言えるのかもしれない。

次のように書いていることからも、中山さん自身この「オリジナル」を一つの現実(=「りんごそのもの」)として捉えていることが分かります。

そんなふうに僕たちは、建築がどこかにある現実の再現として採点されることから、建築を救おうとしている(112)

『建築のそれからにまつわる五本の映画』中山英之

そうなってくると、いよいよ建築において「アクチュアル」とはなんなのでしょう。

すごく大雑把な言葉になりますが、「そこに居る人たちがあろうとする在り方」に迫ることが出来るのが「アクチュアル」な空間なのではないかと私は思っています。「そこに居る人たちがあろうとする在り方」というのはその人たちの空間に対する「イメージ」です。単に記憶や認識だけから構成されるのではなく、その日その時その瞬間の気分や欲望のこもった「イメージ」です。

厄介なのは「イメージ」は移ろいゆくということです。暮らし方や季節やその日の気分なんかによっても、どう在ることが「アクチュアル」に在ることなのかは大きく変わってくるはずです。それは建築家が思い描いていたような気分・状態・使い方と一致することもあるでしょうが、必ずしもいつもそこに収まるものではないはずです。

もし仮に、建築家が思い描いたある理想的な在り方に対していつも「リアル」であること(=再現していること)を求められるのであれば、それは「アクチュアリティ」を損ねてしまうことになるのではないでしょうか。

このことは『原っぱと遊園地』のこの一節に通じています。

かつての標準的小学校は、空間だけを取り出してみれば、ほとんど原っぱと同じ質をもっていた。後の小学校によくあるような、ぼくにはなぜそんなことが必要なのかがまるで理解できない、教室の境を曖昧にし、子供たちのいろいろな精神的要求に対応して、あらかじめいろいろな場所を用意してあげようとしてつくられた、押しつけがましく、人の心にまで土足であがり込むような小学校のつくり方とは対極にある空間である。後者の小学校の質は遊園地に近い。一見自由に思えても、その自由は見えない檻のなかの自由だ。(13)

『原っぱと遊園地』青木淳

この小学校は建築家が思い描いたことに対して、すごく「リアル」かもしれません。だけど、そこに居るひとたちにとって「アクチュアル」になり切れていないんじゃないでしょうか。

とはいえ、建築はそこに居る人の「アクチュアリティ」に応じてうねうねと変容するわけにもいきません。

だからこそ、「リアリティからの距離を示すこと」がむしろ「アクチュアリティ」に対しては誠実であることになるのだと思います。つまり簡単に言えば、決めすぎないこと、大らかに作ることが実は「アクチュアリティ」に迫ることになるのではないでしょうか。

以上です。長文お付き合いいただきありがとうございました。 

やや「リアリティ」と「アクチュアリティ」の概念を肌感覚を超えて拡張しすぎたきらいがありますが、是非今後の何かしらの思索にお役立ていただけると幸いです。

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木村 七音流 ()
東京大学新領域(中略)岡部研究室M1。 建物や都市が生きられるとはどういうことか、というのが個人的なテーマです。建築論・都市論の中からだけでなく、哲学・社会学・表象文化論など周辺の学問分野や、自ら現場で手を動かす実践を通して考えるように心掛けています。なお、所属の正式名称は「東京大学大学院新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻空間環境学講座岡部研究室」です。

1 thought on “建築のアクチュアリティ

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