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『原っぱと遊園地』青木淳

時間のなかでの関係の成熟:文化の醸成のために

以下は、同じ本の中の次の話「続・『原っぱ』と『遊園地』」からです。ここでは、視点を設計の段階から少し離してその後の時間に注目しています。話は表参道の同潤会アパートの向かいにルイ・ヴィトン表参道を設計しているときのことから始まります。

青木さんは、もともと関東大震災後の復興住宅政策として建てられた同潤会の表参道アパートが、その後ギャラリーやアトリエとして使われるようになり、少しずつ改築などを繰り返す中で、建物全体としても独自の雰囲気を醸すようになったことをとても高く評価しています。ここでは、人が空間をつくり、また、空間が人に感じさせるという連鎖が繰り返される中で、その場に一つの空気感=文化が生まれてきていたといいます。(青木さんは機能と言っていますが、実際にはもう少し広範な意味での文化ではないかと思います。たとえばある地域で似たような建物の形式(タイポロジー)が見られるのもその一つでしょう。)

たとえば、(注:表参道の)同潤会アパートでもっとも美しい状況のひとつは、もともと住居としてつくられたこの空間が、ギャラリーや小さなお店としても使われることである。(27)

ここでの空間と機能の関係は、そういう意味で、空間の質が先行している。たしかにこれがつくられたときは、集合住宅としての機能から割り出されたわけで、最初は機能が先行していたはずだ。しかし、それがいつしか自然発生的に、空間の質に合わせてそこでの機能が開発されるようになったのである。同潤会アパートは、人がその空間に感じるあるいはその空間が人に感じさせるというような、いわば人とモノの関係が成熟し定着して、そこから機能が生じるというようなことが現実に起き、また起きてきた場所なのである。(28)

文化というのは、すでにそこにあるモノと人との関係が、それをとりあえずは結びつけていた機能以上に成熟し、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないかと思うのである。(29)


多様な様相と「空間の質」

ここでまた、少し違った角度の設計論に進みます。

青木さんは、「様相」(あるいは「相」)という概念を登場させます。「様相」というのは、簡単に言うならばその事物の「イメージ」のようなものです。同じ建物であっても、見る人・見るときの気分や天気・見る角度や位置、などによって違った印象を抱きます。その一つ一つがその建物の「様相」です。実際に存在する「カタチ」としての建物は一つですが、それに対する読み取り方(=「様相」)は多様です。

また、逆にこの多様な「様相」こそが、その実在を構成しているといいます。簡単に例えるならば、A君の様々なイメージの集合が「A君」という存在を構成している、のと似ています。建物が多様な表情=「様相」をみせるからこそ、厚みのある魅力的な実在を作るのだといいます。

そして、「空間の質」という言葉が登場してきます。曰く、「空間の質」は機能に拠らず、建物の「カタチ」が保証するものであるようです。おそらく、「空間の質」は機能や人の営みを抜き去ったときに残る「形態の詩学」のようなものであると思われます。(これは 磯崎新の「廃墟」のイメージとも近いと思いました。磯崎さんは建物を考えるときにいつも、誰にも使われなくなった後の(例えば人類滅亡後のような)廃墟の姿をイメージするのだといいます。)そこに残る何らかの美学がここでいう「空間の質」というものではないでしょうか。

とはいえ、この「空間の質」という概念について青木さんは具体的な表現はなるべく避けているようです。「空間の質」が良いとはどういうことなのか、はっきりと読み取ることはできません。一つ言っていることとしては、設計において「空間の質」をちゃんと作ることで多様な「様相」が生じるということです。具体的には以下のような言及があります。

実在としての建物の架構はひとつである。しかしその読み取り方にはかなりの幅がある。かなりの幅があるが、架構がもっている直方体の三次元的な組合せが生む質は保たれているのである。(34)

むしろ、たとえばこの建物で言えば、ルイ・ヴィトンのようなブランドがもっとベーシックに求めるひとつひとつの単位空間のスケール感や、それらの組合せ方がつくる感覚こそが空間を決定するのだと思う。機能は変わるかもしれない。しかし、そこに求められる空間の質はそうは変わらないのである。いや、変わらないほうがよいのである。そういう意味で、ここでは、空間の質が機能に先行する。(35)

牛込原町小学校と同様に、同潤会アパートは、その決定ルールの根拠が背後に消えてしまったとき、その空間ははじめて、そこでのなんらかの行為と等価になったのである。

同潤会アパートで、いま住宅としてではなく、他の使い方が自然に派生してきたことは、先に書いたように、もともとはその決定ルールが生じさせた各空間のこぢんまりとしたスケール感と外の町との幸福な一体感といった、その空間に備わる質によっている。こうしたはっきりした空間の質によって、たったひとつの実在としてのこの環境が、様々な読み取り方を許し、いまや逆にそれによるさまざまな相の集合がひとつの実在をつくっているような印象を与えている。(36)

ひとつの実在がさまざまな読み取り方を許し、逆にそれによるさまざまな相の集合がひとつの実在をつくる。これは、ばらばらな様相をただ折衷させるということではない。ばらばらな様相を許容するプラットフォームを与えることではない。そうではなく、ひとつの実在とそれがもちえるさまざまな相を表裏の緊密な関係に置くことである。(36f)

表参道の町の現在の基調は、既存の住宅街を利用して、そこに小さな商売がヤドカリのように入り込んでできた風景である。道端に座ってアクセサリーを並べて売っている人がいる。住宅だったところを借りて、商売を始める人がいる。単に小さな商売が集積してできている町ではない。もともと実在している空間に、編み目のようにそうした多様な相がかぶさってできている町である。……それはもちろん、この町自体にそうさせるだけの魅力があるからである。だから、その魅力の源泉を大切にし、その実在を延長しながら、そこにもうひとつの別の相を加えることが求められるのだと思う。(38f)

後半のロジックがやや複雑(かつ曖昧)なので、少なからず私見を含んだものになりますが、最後に簡単にまとめておきます。

同潤会アパートメントとの関連で言えば、建物に「新たな様相が加わっていくこと」は、そこに新たな機能や使われ方が育まれていくこと、すなわち新たな文化が醸成されていくことと結びついていると言えます。とすれば、青木さんが魅力的だとする自由で豊かな文化を育む土壌となり得る建築をつくるには、多様な「様相」を併存させるような「空間の質」を設計する必要がある、ということがこの「続・『原っぱ』と『遊園地』」の結論であると思います。

以上がざっくりとした、「原っぱと遊園地」の紹介でした。(なお、『原っぱと遊園地』という本には他にもたくさんの論考・エッセイがあります。ここで取り上げたのはそのうちの初めの二つだけです。)

この本は簡単に読める割に、ものすごく示唆の多い文章で個人的にも大好きです。一番気になる部分がはっきりせずもどかしさもありますが、こういった分野への導入としてはとても良いなと思います。「空間の質」とは何か、より興味を持った方は、中谷礼二の『セヴェラルネス+』、ピーター・ズントーの『アトモスフィア』(筆者名ペーター・ツムトアで登録されてます)など読んでみると面白いかもしれません。前者はかなり真面目な論考で、後者はわりと感覚的なエッセイです。

余談ですが、本ブログのタイトル「arch : ARCH」を決めるうえでも「原っぱと遊園地」は一つの重要なレファレンスになっています。詳しくは、次の記事で…!

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木村 七音流 ()
東京大学新領域(中略)岡部研究室M1。 建物や都市が生きられるとはどういうことか、というのが個人的なテーマです。建築論・都市論の中からだけでなく、哲学・社会学・表象文化論など周辺の学問分野や、自ら現場で手を動かす実践を通して考えるように心掛けています。なお、所属の正式名称は「東京大学大学院新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻空間環境学講座岡部研究室」です。

1 thought on “『原っぱと遊園地』青木淳

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