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『原っぱと遊園地』青木淳

「遊園地」的な空間のパラダイム

青木さんは「原っぱ」と「遊園地」は必ずしも共存できないものではないとしつつも、現在において「原っぱ」的な空間が失われつつあることを危惧しています。「原っぱ」的な空間は人間の自由の感覚にとってとても重要であるからです。そこで、もう少しこの二極について詳しく説明をしていきます。

住宅が「原っぱ」であるというのは、そこが人の生活のなかで大きな位置を占める場所であり、実際にしょっちゅうつくり変えるかどうかを別としても、住む人と空間との関係に自由があることを感じとられたほうがいい。それがどんなに住む人の気持ちとぴったりと合っているとしても、それが住む人がその気持ちにとどまることを拘束するのであっては、怖すぎる。いつでも、この空間を別のあり方に変えることができる。そういう気持ちがあるようにつくられるべきではないか、と思う。(15)

そのために、ここでアレグザンダーの『形の合成に関するノート』が出てきます。(くわしくはまた別の記事で…)

『形の合成に関するノート』でアレグザンダーは、あるプロダクトなり建築なりをデザインするにあたって、「要求される条件群」はあまりに多く、複雑なトレードオフ関係にあるので、本来的にデザイナーはそれらを解ききることが出来ないはずだと指摘しています。

しかし、それに対して青木さんは(デザイナーの能力はさておき)「要求される条件群」を有限のものとして想定するアレグザンダーの前提を疑います。予め「要求される条件群」が有限個決まっているという発想は、「○○したがる人間」像を前提としています。仮にデザイナーがその要求に完璧に応えきったとして、そこにできるのは「○○したがる人間」にとってぴったりな器ではありますが、却って使用者をその人間像に押し込めることになってしまいます。これこそまさに「遊園地」が出来てしまう発想の根源にあるのではないかと青木さんは指摘します。

ただ一点だけ、つまり、デザインとは、必要十分条件として、そうしたコンテクストにうまく適応するように形を導き出す作業だ、という彼の最初の前提だけが受け入れられないのである。アレグザンダーの前提をそのまま延長していけば、いつしか「遊園地」に行き当たる。(17f)

青木さんが以下で「コンテクスト」と呼ぶものは、建築を作る際の「要求される条件群」のことです。問題は「コンテクスト」がないことではなく、むしろそれに縛られすぎることであるといいます。

ぼくが考えているのは、建築をつくるときに、求められるコンテクストがない、ということではない。コンテクストはもちろんそこに存在しているし、そしてそのコンテクストとして何を相手にするかも、現状、つねにおかしなことになっているわけだから、大切な問題だと思う。また、プログラム/ダイアグラムが故意に、あるいは固定概念のために、適切なものでないことが多いのだから、それを再編成する努力も大切なことだと思う。もちろん、あるコンテクストに対して、正確に応えることは大切なことだ。

だけれども、そういうことすべてがたとえうまく行っても、ぼくは、それはもうひとつの「遊園地」をつくることしか生まないのではないか、と思う。求めらえるコンテクストがあって、そこからそれを満たすような空間を導き出すということは、つまりは、あらかじめそこで行われることの想定される空間をつくるということだ。それにぴったりの空間をつくるのがいいという前提だ。(22)


「原っぱ」への方法論:ルールのオーバードライブ

ここまでの話を踏まえ、では「原っぱ」をつくるためにはどうすればいいのか、という方法論に入っていきます。

青木さんは、建築を考えるときに「コンテクスト」=「要求される条件群」から空間を構成するのではなく、何かしら明確な(形態上の)決定ルールを設定し、それをオーバードライブ(暴走)させることで、ある意味で人間の意図を超えた形を生成することを提案しています。(とはいえ、「コンテクスト」を無視していいと言っているわけではない。)

「コンテクスト」から考えすぎると、あまりに人間に寄り添った設計になりすぎます。人間に寄り添うことのなにが悪いのかと思われるかもしれませんが、そこで想定される「人間」はあくまで設計者にとっての使用者像でしかありません。使用者をその無意識の檻に囲い込まないために、青木さんは「コンテクスト」に頼らない建築の形態生成方法を提案しているのだと言えます。

これはある種、リノベーション的な発想法だともいえます。リノベでは、所謂建物の「中身」を考える前に、「カタチ」が先に存在します。その「カタチ」を読み取りながら、「中身」となる使い方を考えていきます。そしてまた「中身」に応じて「カタチ」に操作も加えることになります。

しかし、新築の場合には先行する「カタチ」がありません。なので、その代わりにコンテクストに拠らない幾何学的な「ルール」により「カタチ」を生成させることで、ある種人間を突き放すのです。

あらかじめそこで行われることを想定しないで、そこで実際に行われるときに、その空間と行為が対等になり得る、というのは、空間をフレキシブルにつくるとか、曖昧につくるということではない。機能主義の小学校がそうであるように、それは明確な決定ルールに基づき、そのオーバードライブ(暴走)が行われることで生成するものだ。決定ルールの根拠には、目標の共有化という以上の意味はそもそもない。(22)

その決定ルールには、その空間に対して人をどう感じさせようか、というような心理的要素を含んではいけない。それは、できる限り、幾何的生成ルールであるべきなのだ。(22)

アルゴリズムは、パラメータ群から導き出されるのではない。……形をつくるアルゴリズムが先につくられている。(23)

次ページへ続く

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木村 七音流 ()
東京大学新領域(中略)岡部研究室M1。 建物や都市が生きられるとはどういうことか、というのが個人的なテーマです。建築論・都市論の中からだけでなく、哲学・社会学・表象文化論など周辺の学問分野や、自ら現場で手を動かす実践を通して考えるように心掛けています。なお、所属の正式名称は「東京大学大学院新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻空間環境学講座岡部研究室」です。

1 thought on “『原っぱと遊園地』青木淳

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